医学部再受験計画1の中間報告

お久しぶりです。

共通試験まで残り322日になりました。

 

現在の受験勉強計画の中間報告をここに記録し、また予定を再計画したいと思います。

1.数学

数学IIBの20年間分の過去問を解き終え、20年平均6,7割といったところでしょうか。特に何か参考書で勉強して取り組んだわけではないため、とりあえず解いてみた結果、自分の苦手分野や得意分野がはっきりし、同時にまだまだ得点を伸ばすことができるなと思った感じです。3月はとりあえず過去問の復習をし、センター試験特有の誘導のパターンなどを把握していきたいと思います。

数学IAは現在取り組んでおり、2次関数と数と式(命題・集合含む)を20年間分解き、完璧に命題と集合が苦手であることを把握したと同時に、2次関数は20年間平均コンスタントに最低9割は取れることがわかりました。3月は残りの分野の過去問を解き、苦手・得意分野の把握をしていきたいと思います。

 

2.理科(物理)

坂田アキラシリーズの力学・熱力学、波動は終え、残りは電磁気・原子です。少し予定より遅れていますが、おおむね計画通りなので、3月は過去問を解きまくりたいと思います。

 

3.英語

全く英語へのモチベーションがなく、いまだにパーフェクトコースの中学英語をやっています…。とりあえず2月までになんとか終えて、3月は英語漬けで速読と過去問まで取り組みたいとは思っています…。

 

以上、中間報告です。

来年私が合格したときに、このブログが誰かの役に立てばと思います。

 

医学部受験までの計画1

 

来年までの共通試験まで残り356日となりました。

明日から本格的に医学部受験への勉強を始めようと思います。

まずは大学時代に圧倒的に周りから勘違いされたことですが、

私は文系です。そのため、数学IIIなんて知らないし、理科も基礎までしかやっていません。

そのため、医学部受験をする理系の現役・浪人生に文系24歳が独学で挑戦しようとしています。

 

また、医学部再受験する人たち(社会人など)は、2年間勉強して挑むのが多いそうです(ネットでググってなんとなく得たエビデンスのない情報ですが)。

なので、私も2年間を受験勉強の期間として考えています。

 

次に、現在考えている国公立の志望大学は、

1.札幌医科大学医学部

理由 大学共通テストで地歴の配点が50点、国語が150点に圧縮されるため、ある程度社会を捨ててもそこまで周りと差が出ない。そして引っ越しの必要がない!

2.新潟大学医学部

理由 大学共通テストで地歴の配点が50点、国語は100点に圧縮されるため、苦手分野のところであまり差がつかない。

3.帯広畜産大学畜産学部共同獣医学課程

理由 2次試験で数学IIIが不要であること。そして何より猫と犬の医者もやってみたいから。あと地元だから。

 

しかし、その前に改めて今年のやるべきことの優先順位を確認します。

優先順位

1.とりあえず大学院に復学し、保健師国家資格を取得かつ卒業する。

これは親との約束ですので、最優先事項です。

2.論文を最低1本でいいから執筆し、とある学会に提出する。

これは、現在取り組んでいます。具体的には、とある教授から必読とされた、統計学の本を5冊程度理解してから本格的に研究計画を立てていきたいと考えており、2月14日までに統計学は終了し、再び教授に連絡し、研究を進めていきたいと思います。

3.メンタルの安定を保つ。

SSRI抗不安薬で今落ち着いているので、現在のメンタルヘルスを保って1年を過ごしたいです。

4.医学部受験の勉強をする。

1月の具体的計画:

数学III微分積分を終わらせます。

英語はとりあえずざっと思い出すために、パーフェクトコースの中学英語を1月中に瞬殺し、基本的な事項を思い出します。

理科は、生物は記憶すればいいのでまだ手をつける予定はありません。なので、物理を勉強します。これもパーフェクトコースの中学理科の物理の分野を復習します。

2月の具体的計画:

数学IAを復習し、センター試験10年分を解きます。

英語はZ会の速読中級編を終わらせます。また文法はNext Stageを終わらせます。

理科は高校の物理基礎を徹底的にやり、センター試験の過去問を解きます。

3月の具体的計画:

数学IIBを復習し、センター試験10年分を解きます。

英語はセンター試験を解きます。

理科は物理を勉強します。

 

4月からは再び大学院が始まるので、具体的な計画はまずはここまで立てときます。

人生で一番頑張る歳かもしれませんが、頑張ります。

 

可視的なものと不可視的なもの

 満員電車の地下鉄に乗る。

 私は常に人の視線を感じる。

 そして、一定の時間人の視線を感じ続けると、

 ある瞬間に、私はあらゆる物質が凝固した不思議な光の世界へ連れ込まれてしまう。

 これは、私の特権的なものであると同時に、強制的なものである。

 私の意識は鉱物化した吊り手に投射される。

 

 私にとって可視的なものと不可視的なもの。

 他者の視線は私にとって可視的かそれとも不可視的なものか。

 私が鉱物化した吊り手を見るのは、

 私の網膜にその像を映す以上、可視的である。

 

 一方、他者の視線は私にとって不可視的である。

 彼の網膜に本当に私が映っているのかが、私にはわからない。

 ただ、なんとなく、彼の焦点の先が私になっている、そんな気がして怖い、それだけなのだ、と思う一方、

 これは私にとって大きな罠なのかもしれないと思う。

 彼の視線は、私からすると決定的に不可視的な像であるからこそ、

 私にとってより避けられないものになっている。

 

 私は彼の視線の流れ、いわば光の流れと、

 私の知覚、つまり私が感じる光の流れは交叉しているかもしれない。

 その場合、この2つの光は決して還元できない2つの隣あった空間を、

 異なる温度と豊かさをもって、お互いに侵食し合っている。

 この光の空間が作り出す立体的空間は、虚構か現実か、私にはまだわからない。

歪な三角形

私は結局のところ、私の後ろ姿を後ろから見ているのかもしれない。

目の前に立ちはだかる壁は、大きな鏡なのかもしれない。

その鏡は、私の後ろ姿のみを映している。

だから、私は不安定だ。

私の後ろ姿しか映さないのだから、私は何者なのか、何をしているのか、主体の私は知る由がない。

私はいったい見られているのか、それとも見ているのかも知ることができない。

私を映す鏡は、きっと刻々と変化し続ける私という内容や形、表情、同一性を見守っているのかもしれない。

 

しかし、私の眼の注意深い不動性は、別の方向のことを考えずにはいられない。

それは、私の目がたどって映してきた他者から一体どのように思われているのかだ。

 

かくして、私の至上の視線は、人巡りならぬ一巡りすることによって、原理上「私」を規定する私と、他者が規定する「私」の三角形を律するはずである(しかし、客体から見た私と他者から見た私が一致するのはほぼないため、四角形を律することが多いはずである)

そして、その三角形を認識して初めて、可視的な唯一の点である「私」と、底辺に「私」を規定する私と、他者が規定する「私」の結ばれた線があるはずである。

 

しかし、この可視的な点である「私」、そして三角形はなんとも歪である。

一方からは、私の後ろ姿を、

裏返すと、私の顔が映し出される、

歪で立体的な三角形だからである。

 

しかし、この歪な三角形の頂点にこそが、私の形象である。

純粋な相互性

前回のテーマ「死角」の続きである。

私(主体)と目の前に立ちはだかる1つの平面から一歩引いたところにいる私(客体)についてである。

私(主体)は私(客体)を見つめ、私(客体)も私(主体)を凝視する。

 

この2つの視線が交差しながら重なり合い、1つの直線となった時に、純粋な相互性が生じる。

 

しかし、私を見つめる可視性をあわらす直線は、不確かさと交換を持っている。

1つの網目と盲目全体を含んでいる。

 

結局のところ、見つめられる私(客体)は、主体の私のおまけにすぎないのかもしれない。

主体の私の視線に迎え入れられながら、同時に追い払われ、最終的にずっと前からそこにあった「私」といういくつものモデルに置き換えられる。

反対に、平面から見る客体である私も、主体の私と同じ数のモデルを受け入れているわけである。

 

つまり、見るものと見られるものはたえず入れ替わる。

これらの視線は安定してない。

「私」は常に安定してないものである。

死角

彼女は、彼女の眼では見えぬ一点を見て、凝視している。

私には彼女が見ているものがわかる。

その一点こそ、彼女自身、彼女の身体であり、

彼女の顔であり、彼女の眼である。

 

この死角ともいえるものは、

見つめている彼女の視線が彼女自身に隠されてしまう、

彼女自身の本質的な隠れ場に位置している。

 

彼女の視線からその見つめているものまで、

見つめている限り、

彼女自身は見通すことはできない、

1つの平面が立ちはだかっている。

 

それは現実の彼女自身の前に立ちはだかり、

その表面の一歩手前のところで、

私を観察する彼女を、私がそこから彼女自身を観察する、

その場所にやってくる。

 

この平面こそ、

私と彼女という表象とを結び付けてくれるものにほかならない。

 

人は自分自身を見つめることは、難しい。

一歩引いて、客観的に自分自身を見てみるとは、こういうことではないだろうか。

 

「私」

「私」という存在は、あとは仕上げの筆を加えれば完成するのだろうか。

それとも、最初の筆すらまだおろされていないのかもしれない。

 

「私」という存在の核は、不自然にねじ曲がっている。

今、彼女は、画布と液体墨のあいだで固まっている。

筆を持つ手は視線に吊らされ、いや、攣らされている。

彼女の視線は、逆に、静止した動作によしかかり、支えられている。

そしてその光景は、今まさに「私」という立体的空間を解き放とうとしている。

 

描きかけの画布の表面が後方へ垂れ下がり、「私」に覆いかぶさる。

そして、大きくいびつな形をした「籠」の中から「私」が出てきたところで、

「私」は彼女の目に映るようになる。

そのくろずんだ胴体、その泥にまみれた顔、

それらは彼女の目に映る静止の瞬間のうちに、

振り子がちょうど真中で止まったかと思われるうちに、ちょうど見ることができるのである。

つまり、「私」は目に見えるものと目には見えないものの境に存在するのである。

そして、彼女は、彼女が書き表す「私」を見ることができると同時に、

自分が熱心に、苦悩しながら「私」を書き表している「彼女」を見ることができないのである。