歪な三角形

私は結局のところ、私の後ろ姿を後ろから見ているのかもしれない。

目の前に立ちはだかる壁は、大きな鏡なのかもしれない。

その鏡は、私の後ろ姿のみを映している。

だから、私は不安定だ。

私の後ろ姿しか映さないのだから、私は何者なのか、何をしているのか、主体の私は知る由がない。

私はいったい見られているのか、それとも見ているのかも知ることができない。

私を映す鏡は、きっと刻々と変化し続ける私という内容や形、表情、同一性を見守っているのかもしれない。

 

しかし、私の眼の注意深い不動性は、別の方向のことを考えずにはいられない。

それは、私の目がたどって映してきた他者から一体どのように思われているのかだ。

 

かくして、私の至上の視線は、人巡りならぬ一巡りすることによって、原理上「私」を規定する私と、他者が規定する「私」の三角形を律するはずである(しかし、客体から見た私と他者から見た私が一致するのはほぼないため、四角形を律することが多いはずである)

そして、その三角形を認識して初めて、可視的な唯一の点である「私」と、底辺に「私」を規定する私と、他者が規定する「私」の結ばれた線があるはずである。

 

しかし、この可視的な点である「私」、そして三角形はなんとも歪である。

一方からは、私の後ろ姿を、

裏返すと、私の顔が映し出される、

歪で立体的な三角形だからである。

 

しかし、この歪な三角形の頂点にこそが、私の形象である。