可視的なものと不可視的なもの
満員電車の地下鉄に乗る。
私は常に人の視線を感じる。
そして、一定の時間人の視線を感じ続けると、
ある瞬間に、私はあらゆる物質が凝固した不思議な光の世界へ連れ込まれてしまう。
これは、私の特権的なものであると同時に、強制的なものである。
私の意識は鉱物化した吊り手に投射される。
私にとって可視的なものと不可視的なもの。
他者の視線は私にとって可視的かそれとも不可視的なものか。
私が鉱物化した吊り手を見るのは、
私の網膜にその像を映す以上、可視的である。
一方、他者の視線は私にとって不可視的である。
彼の網膜に本当に私が映っているのかが、私にはわからない。
ただ、なんとなく、彼の焦点の先が私になっている、そんな気がして怖い、それだけなのだ、と思う一方、
これは私にとって大きな罠なのかもしれないと思う。
彼の視線は、私からすると決定的に不可視的な像であるからこそ、
私にとってより避けられないものになっている。
私は彼の視線の流れ、いわば光の流れと、
私の知覚、つまり私が感じる光の流れは交叉しているかもしれない。
その場合、この2つの光は決して還元できない2つの隣あった空間を、
異なる温度と豊かさをもって、お互いに侵食し合っている。
この光の空間が作り出す立体的空間は、虚構か現実か、私にはまだわからない。